風鳴舎

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発達障がい?特別支援教育って何だろう?[第2話]

子どもの視点に立とうとすること

あるADHDの女の子が一生懸命に考えながら60ピースのパズルと格闘しています。1ピースがやっとはまりました。パンッと手を叩きガッツポーズで「ヨッシャー!」
その様子を見ていた私まで嬉しくなり、次のピースがはまった時には一緒にガッツポーズで「ヨッシャー!」その子は嬉しそうに私を見ます。その次のピースもはまり、顔を見合わせて二人でパンッ!「ヨッシャー!」
 そんなことが続き、次第にピースを埋めるスピードは速くなり、とうとう完成しました。私達はハイタッチで祝いました。パズルの完成がこれほど嬉しかったことはありませんでした。
 その子は何事にも一生懸命なのです。その一生懸命さを向ける方向が時として適切ではないために大人から叱られるようなことになってしまうのです。刺激に敏感、自己コントロール力が弱く我慢できない、落ち着きがない、片付けができない・・・悪い面は沢山出てきますが、良い方に解釈すると、好奇心旺盛、独創的、いろいろな人や物に気持ちを向ける、親しみがもてる、個性的、エネルギッシュ・・・と言うこともできます。
 人は注目したところが伸びるものです。悪いところに注目しすぎると悪循環にはまってしまうので、無理矢理にでも良いところを見つけて褒めるくらいの気持ちでいるようにしています。
 6月のある時、授業が始まっているのに廊下で寝ころんでいる子がいました。私はその子の興味のありそうなぬいぐるみを見せて言いました。
「教室、入ろう」
すると、その子は言いました。
「入らない」
私は困って何もできずにその場に立ちすくんでいました。その時です。あのADHDの女の子が走ってやってきました。滑り込むように廊下に寝ころび、その子と一緒に横になったのです。私は呆然と二人を見ているだけでした。
しばらくしてADHDの子が言いました。
「つめたくて気持ちいいね」
「うん」
「そろそろ入ろうか」
「うん」
そう言うと、二人は手をつないで教室に入って行きました。その後ろ姿を見ながら、寝ころぶことができなかった自分を反省しました。なぜ私は寝ころぶことができなかったのでしょうか?服が汚れる、廊下に寝ころぶのは良くないと思いこんでいる、勇気がない、プライド・・・
 一緒に寝ころぶ、一緒に歩く、一緒に食べる・・・一緒に同じことをするのは世界を共有することです。一緒に活動することで関係性ができてきます。立ったままの上から目線で、教師としての建前を優先した私と、寝ころんで同じ廊下の冷たさを共有したADHDの子との違いが、寝ころんでいる子には分かるのです。
 日本の子どもが言語の分からない国、例えばブラジルに行ったとしましょう。ブラジルの子ども達に話しかけられても日本の子どもは言葉が分かりません。そこで、ある子がサッカーボールを持って来ました。一緒にやろうというジェスチャーです。サッカーを通して日本の子どもとブラジルの子どもの間には関係性がつくられていきます。その上で、サッカーのルールは守らなければならないことも同時に学習するでしょう。
 本人そのものという人物は存在せず、常に誰かにとっての本人であり、関係性に規程されます。
 ADHDの子どもは我慢ができにくいと言われます。良好な関係性を維持するのも苦手です。関係性を維持しつつ、我慢することを学ぶためには、言語、非言語を問わず、大人の関わり方が子どもにどのようなメッセージを伝えているのか吟味することです。
「障がい」があろうとなかろうと私達は人間関係の中で生きています。それは喜びや悲しみを分かち合うことでもあります。
 先程のADHDの子は、一瞬一瞬が楽しいことや悔しいことなど生きている実感に満ちあふれています。そして、私は私であると同時にみんなの中の私、という気持ちが少しずつ育ちつつある子でもあります。

2015.11.21 更新

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